大丈夫、なるようになる。

2012年、上の娘が4歳になりたて、下の娘が間もなく 2歳の時に、今住んでいる国に海外移住しました。

ただ、行く、と決めたわたしに夫が仕事を辞めてついてきてくれたので、

もちろん夫婦ともども次の仕事のあてもなく、住むところも決まっていない。

でも、とりあえず行けばなんとかなるはず、と日本の家、仕事を1年かけて片付け、

スーツケース1個とバックパック1個、

スポーツバッグ1個に家族4人分の荷物を詰められるだけ詰め込んで日本を発ちました。

 

最初の1か月だけ、いわゆるゲストハウスのようなところに泊まり(クーラーがないワンルーム。雨期だったので蒸し暑く、娘たちが夜暑い暑いと泣いたっけ・・・)電車やバスなどの公共交通機関がない島なので、まずは足がいる!とバイクを買い、そのバイクに4人乗りして、ローラー作戦でありとあらゆる路地に入っていって、現地の人に不審がられながら、住むところを探したのも今となってはいい思い出。

 

そして次に住んだところはサービスアパートメント。清掃、ベッドのシーツ交換などはやってくれ、共同プールもついていたけれど、ここもやはり家族4人で住むには十分な広さではなく、またもや次の家探し。ここで(普通に日本だとあり得ないけど)浴室のホットシャワーが漏電していて、シャワーを浴びようと蛇口をひねったら感電したのも今となってはいい思い出。

 

移住3か月目、ようやく予算内でいい感じのこぢんまりとした一軒家を見つけ、少しだけ落ち着くことができました。それでも、来たらなんとかなるかと思っていた夫の仕事は見つからず(就職活動もしてなかったから当たり前といえば当たり前)、

渡航の際にとりあえず1年これくらいでいけるかな?と持ってきたお金で家賃1年分、家具に電化製品一式揃えて、子どもの学費半年分に家族4人分のビザなどの滞在費をまとめて払ったら、あれ?3か月目だけど、これ、大丈夫?この残高であとどれくらい生活できる?と慌てたのも今となってはいい思い出。

 

移住4か月目。心許ない残高に、夫がとりあえず俺、日本帰って出稼ぎしてくるわ、と

季節労働をしに帰国。ファミリー向けの一軒家なだけに周りは現地人ばかりのローカルエリア。現地語もわからず、英語は読めて書けても、話すのはいまいちだったわたしと、4歳、2歳になったばかりの日本語すら怪しい娘2人と取り残され、

でもやるしかない、背に腹は代えられず自分の座るシートの前に子どもふたりを乗せて、スーツケースのバンドで3人まとめてくくり、バイク3人乗りして学校の送り迎えしたり、スーパーに行ったり。(バイクはもともと中型免許があるので乗れました)

ちなみに、こっちのガスはプロパンガスでボンベを交換して使うタイプ。20㎏以上あるガスボンベをバイクの前に積んで近くの商店で新しいものと交換してもらうんだけど、夫がいないので、どうにか一人でバイクの足元に積んで、両足で押さえながら交換しに行ったら、近所のみんなに、『Aki、それは女の人のやる仕事じゃないの、交換が必要なときは、誰かに言いなさい。』とまあまあびっくりされたけれど、自分的には、やればできるやん、と達成感を感じたのも今となってはいい思い出。

 

2~3ヵ月夫は日本で働き、1ヵ月こっちで遊ぶという生活。

夫がいない間の小さな子供2人抱えての、言葉が通じない国での母子3人暮らしは、次に夫がこっちに帰ってくるまでの日にちを毎日カレンダーに書いて、あと何日、あと何日と呪文のように繰り返しながらなんとか日々を過ごしていたことと、あとはなんとなくの断片しか記憶にないくらい精神的にも肉体的にもハードで夜1人で子どもの寝顔見ながらよく泣いていたのも今となってはいい思い出。

 

そういえば一回、娘の癇癪に耐えきれなくて(今は穏やかな長女ですが当時は泣きだしたら1時間でも2時間でも声を限りに泣き続けるのが普通でした)どうしても1人になりたくて、でもここは海外、そんなこともできず、でももうだめだ、ってなって、泣き叫ぶ子を家に残したまま、一人家の外に出て泣いたこともあったっけ。

隣人が出てきてくれて『Aki どうしたの』と聞かれ、『疲れた。』と一言だけしか言えなかったけど、察してくれて、子どもたちを預かってあげるから、一人でゆっくりしておいでって言ってくれたことはわたしの中の大切な思い出。(その彼女は今結婚してスイスで子育て中。今もずっと繋がっている大切な友達になりました)

 

そしてそんな生活が約1年半続き、ようやく慣れてきたころに、不思議な縁でつながった友だちの紹介で夫のこちらでの仕事が決まった。決まった時は、ああこれで家族4人でまたちゃんと一緒に住めるな、って安堵したのは本当に今もいい思い出。

 

今こうして、この外出自粛の機会にアウトプットしようと当時のことを思い返してみると、冗談抜きで大変だったけれど、でもあの時経験した全てのことは、今では本当にいい思い出になっているし、できる、なんとかなる、と思ってやってきた全てのことが、本当になんとかなってここまで来ているんだなあと改めて考えるきっかけになりました。

だから今、コロナによるロックダウンで、夫の職場が営業できず、夫はいわゆる一時解雇のような状況で、わたしの仕事も全面停止、我が家は現在収入がないけれど、焦りはなく、『大丈夫』『なるようになる』、と【すべてはなるようになることを知っている】という感覚がものすごくあって、不思議と落ち着いています。

むしろ、コロナ以前よりも、そういう感覚が研ぎ澄まされていく感じ。

 

この感覚を忘れないように、思ったことをどんどん書き残していこうと思います。