創る。

2020年。

突如として現れたコロナウイルスは、世界を変えた。

今まで暮らしていた、普通だと思っていた日々は、様変わりし、

今までの普通は普通でなくなった。

今までの思い込みを変えろ、生き方を、己の内側を変えろと、多くの人に迫った。

この騒動の中で、人としての本質がより一層はっきりと見えるようになった。

 

自分ではコントロールできない流れの渦の中に、否応なく放り込まれたとき、

わたしたちは意図せず、自分自身の内面と向き合うことになる。

自分の内側をのぞき込むことは、意外に簡単なようで難しい。自分の中の善悪、心の弱さ、本当の夢や希望。見たくないものが見えたり、見えてしまったことにより、今までの自分を捨てなければいけなくなるかもしれない。

 

でも、その時が来た。

2020年。

自分自身の深淵を覗きこむチャンスの時が再び来た。

大地に足をつけて、空を見上げる。大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。

そして、見つめる、その時。

 

1996年秋。生まれて初めて、文字通り胸に穴が開いたような喪失感と悲しみを知った。作り笑いの中に隠して、全てのわたしの外側で起こる現実を拒否した。

先が見えなくて、苦しくて、でも泣けなくて、外側で起こった納得できないことに対する納得できる理由を探し続けた。

自分の内側と初めて深く向き合うという経験をした。自分も他人も憎んだ。そして他人に救われもした。

それでもやはり答えは出なかった。ただ、自分を知ることは同時に癒しを求めるプロセスでもあり、少しづつ癒された。

 

2011年春。わたしはわたしの中から聞こえる声に従って、抑えきれない感情に身を任せた。あの時も、また自分の内側を覗いた。

そして自分自身の手に委ねられた2つの小さな命のために生き方を変えた。

その感情は、恐怖と不安。そして消せない小さな希望。

新たな暮らしに戸惑いと不安と、小さな喜びとを抱え、日々を過ごした。

 

3年ほど前から、またわたしの中で、少しづつ声が聞こえ始めた。

本当の自分はどこ?何をしたくて、何がしたくないのか。何度も何度もそれは

わたしに問いかける。

わたしは少しづつ、本当に少しづつ、その声に一歩づつ近づいていった。

 

わたしはわたしを探し始めた。

わたしの外側の世界を整理し、片づけていく作業の中で、少しづつ自分の

内側にもまた目を向け始めた。

だけど、自分の内側をのぞき込むことは、やはり怖くて

なにかが見えそうになった時に、日々の暮らしの中で流してしまったり、

普通は、という言葉で自分の感情に蓋をしたりもした。

 

本当は、見えつつあるのに、見て見ぬふり。

見て見ぬふりの、自分の、こころ。

 

そして、今。

その時が来た。その時が来たよと、わたしがわたしに教えてくれている。

わたしは、どういうわたしで在りたいか。

わたしは、どういうわたしを創っていくのか。

裏と表、善悪、光と影、全てを内包した本当のわたし。

 

奥の、その更に奥。わたしの、本質。本音。ありかた。

今、奇しくも与えられたこの時間で、見えてきたもの。

わたしはわたしの外側に在るものや出来事にコントロールされたりせずに生きる。

見ないのではなく、外側の世界の地に足をつけて、やりたいことをやる。

そしてまた、内側の変化によって、外側の世界がどのように変わっていくのかを

身をもって体験したい。体験する。

 

内なる自分を知り、その願いをかなえる。

21歳のわたしも、35歳のわたしも、全て今のわたしに繋がっていた。

自分自身を知り創造するために、生きてきた。

誰のせいでもなく、誰のものでもない、わたしの人生。

 

わたしはわたしを創造する。